会長の時間/2023年8月31日
先週ですが家族で久しぶりの長崎観光をまじめに行ってまいりましたが、その際に息子から「来年修学旅行でいくから、いい」と言われまして「軍艦島はいかんやろ、他のところも予習しとき」と説得すると、「ゲーム機持って行っていい?」と、いつもは「いいよ」と返すのですがなんか腑に落ちなくて「お前、何様か?」と怒ってしまいました。
親や家族が何かをしようとすることに少しでも自分の優位な得するものと「取引している」姿に違和感を感じます。
今の子は多分みんなそうです、私たちもそのことはあてはまりませんか?そこで昔読んだ「下流志向」学ばない子供たち・働かない若者たちという本をもう一度読み返しました。
線引きは難しいのですが、年代的に私たちの頃は最初に触れる社会が家庭であり、その中で物事や人間関係、良しあしを体感し、お手伝いや労働を通して褒美(おこづかい)や社会(家族)の一員としての認知、必要とされることで脳が高揚し満足し報酬として得て人格と社会の距離を時間をかけて身に付けたとあります。
しかし、現在では一番最初に触れるのは市場社会です。
お金をもってコンビニへ行くと「いらっしゃいませ」、大人が頭を下げることを体感して、誰であろうがお金さえあれば大人と同じサービスが受けられること、その消費する感覚は社会の中でも「買い手」であることの優位と満足感を脳に植えつけられます。
この消費的な思考はお金がすべてと認識するよりもっと後遺症が残るそうです。
まず、あたかも対象の価値を知り得ていて、それが自分にとって価値あるものかどうかを瞬時に「買い手」としてふるまう習慣です。
現代の若者は「買い手」として社会にいる方法を身に付けていきます。
「小学2年生が授業で掛け算はなぜ必要なのですか?」と、実際に市内の小学校であったそうです。
教育も市場サービスと勘違いし、気に入った(勉強内容)商品かどうかで物事を見る習慣の例です。
気に入ったものは買うでも、気に入らないものを押し付けられたら何を支払うかというきっちり交渉を買い手として用意しているのです。
それが交換条件や自分の態度や無視など「不快」を提供します。
授業を聞かない、別のことを平気することは彼らの価値を等価で提供する方法なのです。
先ほどの長崎旅行で息子はゲームという交換条件を出しました。
子供も悪意はないのです。
今や、少子化と親や家庭の環境が変わり、家庭での子供環境は激変しました。
お手伝いしようにも家電は高度化し、「あんたは何もしないで、触らないで、勉強して」と親から言われ、お小遣いを両親の祖父母からたんまりもらい、欲しいものを自分で選んで買える。
この消費社会でデビューし「買い手」と等価交換の術を身に付けてきているのです。
私たちは「消費的な有利な買い手」を市場で生業としては正論ですが、ロータリークラブを「今」有用な商品かとか、等価交換で価値があるのかで見てはいけませんし、そのような質問にはどのように答えるか?本日の会員増強タイムで皆さんで考えてみませんか。
次週はこの「消費的な有利な買い手」と「持つ」こと「在る」ことに再び話がつながります。